洋弓

洋弓

大学では洋弓部に所属。

高校二年生の修学旅行で金沢に行ったときに、自由行動日に足を伸ばした「琵琶湖バレイ」の洋弓場で、店番さんが野球中継に夢中だったために「勝手に射ってていいよ」と射ち放題にしてくれたのがきっかけで洋弓に興味を持ち、大学に入るとすぐに洋弓部に入部希望を出しました。

当時の洋弓部は個性的なアーチャーが多く、1年先輩では、やたらスタビライザーの形状に凝るワダさん、不調の原因を常にプランジャーのせいにするツジさん、マッチョでありながら弓が引けなくなってくると左腕が自励振動を始めるノマさん。同期でも、体育講議を落として駒場から本郷に行くのが一年遅れながら主将を務めたヤマザキ、高価なスコープが羨望の的だったイシイ、合コンで「マルダイさん」と呼ばれ「誰がハムやねん」と怒っていたミヤダイなど、人材(?)が豊富でした。

私はといえば、選手としては平均的な成績(といっても現在の現役諸君とではショートハーフで50点程開きがある模様)で、試合では2年生の途中から4年生のリーグ戦第一戦までほぼコンスタントにエイトに加わり、部の運営面では主将のヤマザキにおんぶして気楽な副将を務めました。洋弓部時代のエピソードには、たとえば以下のようなものがあります。

  • 洋弓の道具を入れた白いケースをぶらさげて通学する私の姿を見て、御近所の主婦たちは「○○さんのところの長男は、編み機のセールスマンをしているらしい」と噂しあっていました。
  • 1年生の夏合宿で夜騒いでいた2年先輩のサトウさんを大声で叱りつけてしまう。この頃から瞬間湯沸器的性格が顕著に現れていました。
  • いつの間にか2年生の夏合宿までに50m-30mで600点を出さなければ同期全員にサーロインステーキをおごるという約束をさせられ、合宿前日にかろうじて達成。その後、3年生の頃には練習ではコンスタントに600点台を出していた時期もありますが、試合ではおおむね570から600の間を行き来。
  • 同じ夏の北海道遠征時、試合終了後のオフに札幌で食べたジンギスカン料理に当たってしまい、ひどい下痢でグロッキーになりながら一人青函連絡船で本州に帰る。このときが、その後登山で何度も訪れることになる北海道への初渡航。
  • 3年生のときのリーグ戦で試合日程を間違えて不戦敗となり、学連では主将のヤマザキとともに謝罪、先輩からは坊主になれと迫られる。結局坊主はかんべんしてもらい、そのかわり以後週7日練習を義務付けられました。
  • その夏の京都遠征時、1年後輩のオカダと北大のサクマとが酒場で喧嘩。外に出て喧嘩の続きをしていたところ、通りがかりのヤクザ(?)に二人とも川に叩き込まれた(らしい)。今から思うと、飲んでいたのは木屋町で、二人が叩き込まれたのは高瀬川に違いありません。
  • 3年生の春合宿時、雨の日にサボって練習を後輩たちに任せ、自分達はこたつでぬくぬくしていたところを1年先輩の諸氏に見つかり、夜、一人づつ呼び出しをくらって説教を受けました。一般の体育会系クラブなら鉄拳の嵐になっても不思議ではないシチュエーションだったと大いに反省……。
  • その説教時の公約を果たし、4年生最初のリーグ戦でエイトに選ばれ、これを引退試合としました。試合終了後、弓のパーツ(リムやスタビライザーなど)はその場で競売にかけてしまったため、現在、自分の弓は残っていません。

1年生の夏合宿

1年生の夏合宿。奥信濃の戸狩高原だったと記憶。

1年生の春合宿?

こちらは1年生の春合宿?そうであれば、たしか下田。

京都での5大学戦左から右へ、石井・私・辻さん。

京都遠征時のよく日焼けしている私。オープンとスクエアの混じったスタンスとライオン髪が特徴。この頃は視力が1.5〜2.0あって眼鏡をかけていません。矢を放つ際に弓を振り回す癖があるので、隣のアーチャーにとっては迷惑千万だったと思いますが、最後までこの癖は治りませんでした。

木屋町にて

木屋町にて。喧嘩でぼろぼろになったオカダ(前列左)・北大のサクマ(後方)には気の毒でしたが、実に楽しそうな私(立っているブルーの服)、ミヤダイ(後列真ん中)、タカダ(右端ループタイ)と京大の面々。

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