午前9時にホテルに迎えにきたガイドは、ちょっと体格がよくて陽気なルイス。10人のお客を車に乗せて2時間の旅で、きれいな遺跡のメインゲートに到着しました。ここで、ルイスはお客を待たせてしばしガイド仲間たちと談合。実はバスの中ですでに判明していたことですが、10人のお客のうち英語を使うのは私だけで、残りの9人は全員スペイン語。そこで(こういう場合の常道ですが)ルイスは現地でガイド仲間を見つけ、お客のシャッフルをしようとしていたのですが、どうやら適当なガイド仲間をつかまえることができなかったようです。諦めたルイスは、その後9人のお客にスペイン語で説明した後、私ひとりのために同じ説明を英語で繰り返すことになってしまいました。当然その間、スペイン語のお客たちはてんでに写真をばしばし撮影することになります。

| Preclassic | 500 B.C. to 325 A.D. | オルメカの影響 | |
| Classic | Early Classic | 325 to 625 B.C. | マヤ独自の文化が発展 |
| Flowering | 625 to 800 A.D. | 最盛期 | |
| Decline | 800 to 925 A.D. | 都市の放棄 | |
| Transitional | 925 to 975 A.D. | 古典期以前のレベル | |
| Maya-Toltec | 975 to 1200 A.D. | 中央アメリカからの進出と都市同盟 | |
| Mexica Absorption | 1200 to 1540 A.D. | 同盟の崩壊と混乱 | |
チチェン・イッツァは新旧二つのエリアに別れており、南側の旧チチェンは古典期に築かれ、マヤ独自の文化の色彩が濃厚です。ここはいったん放棄され、その後10世紀にメキシコ中央高原のトルテカ文化と融合した文化の担い手が、旧チチェンの北側に新たな建造物群を築造しました。こちらが新チチェンと呼ばれるエリアで、さまざまな意匠にトルテカ色がはっきりと窺えます。ウシュマルと同盟を結んでユカタン半島北部に威勢を振るったのは、この新チチェンの方です。
まずは、ゲートに近い新チチェンから見て回ります。
←mouse over.
こちらが有名なエル・カスティージョ、またの名をククルカン神殿。冥界の9層を示す9段の基壇を持ち、高さは24m。内部に隠された古い神殿には赤いジャガー像が置かれ、その目に使われた翡翠はモタグア川流域(グアテマラ)からもたらされたものだそうです。ただ、残念ながら数年前に事故があり、現在は階段を登ることも神殿内部を見ることも禁じられています。また、外面は東西南北に91段の階段を持っており、91段×4と最上部の神殿の1段を足して365日を示すほか、各面に9段が階段をはさんでふたつあることから18段で、これはマヤ暦が20日を1単位とする18月と不吉な5日をもって1年を構成したことに対応しています。そして春分と秋分の日の午後3時には、地面に接するところにククルカン(ケツァルコアトルのマヤ名)の頭部を持つ北の階段の側面に9段のテラスが作る影がうねうねと波打って、あたかもククルカンがピラミッドの上から地上に降り立ったように見え、毎年その時期のこの遺跡周辺はお祭りになるのだとか。ちなみに、このピラミッドには視覚的効果だけでなく音響的な仕掛けがあって、階段に正対して手を叩くとククルカンの鳴き声(?)が返ってきます。ウシュマルの魔法使いのピラミッドの前や、パレンケの太陽の神殿と葉の十字架の神殿の間で手を叩いても同様の反響効果が得られますが、マヤ人の建築家の技巧にはほとほと感心するばかり。

こちらはジャガーの神殿。その裏に球戯場があり、神殿の上に登ると球戯場を見下ろすことができるようになっていますが、この階段の急勾配はちょっと怖いかも。また、写真では小さくてよくわかりませんが、上の四角い建物の基部から突き出しているのはククルカンの頭部です。
←mouse over.
こちらが、尋常ではない広さの球戯場の中。7対7に分かれてゴムのボールを腕と足で打ち合い、壁から突き出ているリングに(通すのではなく)当てればそこで勝敗がつくというルールだったようです。リングの浮彫りはやはりククルカンで、王族しか見ないので客席は両端の貴賓席を含めごくわずか。そしてご覧のとおり、壁がわずかに前傾しており、音がとてもよく響くようになっています。ここで選手達が声を上げながらボールを奪い合ったら、選手も観客もかなりヒートアップしたことでしょう。

球戯場の壁の浮彫り。勝者が首を斬られ、吹き出した七筋の血しぶきが蛇になって豊穣をもたらす図になっています。なんで?という顔をするゲストたちに、ルイスは「当時は今とは価値観が違いますから。自分の命を神に捧げることはたいへんな名誉だったんです」と説明していました。

こちらは、球戯場の近くにあるツォンパントリ。「ツォンパントリ」という名前を初めて知ったのは「インカ・マヤ・アステカ展」で、アステカが捕虜にしたスペイン人の頭部を串刺しにしてさらしたという話。やはり、メキシコ中央高原の習慣を反映したものです。

ジャガーと鷹の台座。壁面には人間の心臓をつかんだジャガーや鷹が浮彫りにされています。近くにはほかに金星の台座もありますが、こうした台座は生贄の儀式に使われたようです。階段の両脇にククルカンの頭部が突き出していますが、これを見ながらのルイスと私の会話。「日本でも蛇はsacredでしょう?」「?」「白い蛇は崇められると聞いているけど」「!」「それに亀は長寿のシンボル。マヤと日本は似た文化を持っているようですね」……なるほど。

台座群から北へしばらく歩いたところに、セノーテがあります。直径60m、水面までの高距は22m、水深20mとユカタン半島で最大級です。

カバーの記事で書いたように、セノーテは石灰岩の台地であるユカタン半島の地下水脈上が陥没してできたもの。川のないユカタン半島北部で貴重な水源となるだけでなく、ここチチェン・イッツァのセノーテは信仰の対象ともなり、子供、処女、戦士といった人身御供や宝物などの様々な貢ぎ物が捧げられてきました。人身御供は、セノーテの縁辺に作られたスチームバスで身を清めてから捧げられたそうです。

セノーテから新チチェンに戻って、今度は南の旧チチェンへ。その道の途中にあるのが、この高僧の墳墓と呼ばれる建物です。ルイスの説明によればこれは本当の墓で、被葬者と17人の殉死体が内部から見つかっているということです。また、この見た目はエル・カスティージョを小型にしたような感じで、階段の下にはククルカンの頭がありましたから、旧チチェンにあってもこの建物自体はメキシコ中央高原の文化の影響を受けているのでしょう。
←mouse over.
こちらが旧チチェンを代表する建造物であるカラコル(天文台)。と言っても、建造されたのは比較的新しく、西暦900年から1000年の頃だそうです。残念なことに、ここも今は登ることができません。高さ9mのプラットフォームの上に13mの観測台が乗り、円筒状の壁に開けられたスリットから太陽や月、金星、プレアデス(Tzabと呼ばれました)を観測して、高度に正確な暦を作っていたのです。
カラコルの南にある巨大な尼僧院と、その近くの華麗な教会。いずれも名前は後世に勝手につけられたもので、実際の用途はわかりませんが、特に教会の方は典型的なプウク様式による装飾に覆われており、開口部の上のケツァル羽根飾りをつけて結跏趺坐する人物は支配者層、その左右のチャック像の額には太陽神が小さく乗っていて、全体としてもこの開口部が口となった大きな顔のように見えます。そしてここは、神々の国との結びつきをもたらす施設として作られていたようです。

新チチェンに戻って、最後に巡り見たのが戦士の神殿。その周囲に整然と立ち並ぶ膨大な数の石柱はメキシコ中央高原のトゥーラ遺跡との関係を示唆し、他のマヤ遺跡では見られないものです。また、神殿本体の上の方には、面白いことにチャックとククルカンが共存しています。そして正面階段の上には、神々と人との間をとりもつメッセンジャーであるチャック・モールが二体のククルカンの柱の前に仰臥しています。かつては生贄の心臓を載せて血に染まりながら王の祝福を受けたであろうチャック・モールも、今はさまざまな国からやってきた観光客たちを静かに見下ろしているだけです。
←mouse over.
こうして、トルテカ文明の影響下に後古典期の北部マヤの覇権をウシュマルと共に担ったチチェン・イッツァでしたが、13世紀に反乱が起こり、政治権力の中心は両都市の中間に新たに建設されたマヤパンに移って、チチェン・イッツァは放棄されてしまいました。16世紀にスペイン人司教がチチェンの建造物群に関する記録を残していますが、その後はこの地は忘れられてジャングルに埋もれ、再び日の目を見るようになったのは1840年代になってからのことでした。

これで、この旅での遺跡探訪は終了。14時15分にゲートを出て、この日も遅めの昼食をとった後、メリダへ戻る皆と別れて私はカンクンに向かう16時発のバスに乗るはずでしたが、うまい具合にルイスが知り合いのドライバーをつかまえてくれて、1時間早くチチェン・イッツァを発つことができました。ルイス、ありがとう!
