帰国

日程 12月 1月 写真集
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夜間飛行の飛行機の中ではしっかり寝ようと思っていましたが、機内上映の「Toy Story 2」が実に面白く、とうとう最後まで見てしまいました。本編のストーリーもCGも文句のつけようがないし、エンディングではNG集をつける凝りよう(CGの登場人物がNGを出すはずがありません。パロディです)に拍手喝采です。おかげですっかり寝不足の私を乗せたNH916便が成田空港に着陸したのは7時前。リムジンバスとタクシーを乗り継いで自宅には9時過ぎに帰り着きました。F女史に無事帰国の連絡を入れてからiMacを起動すると、Mac OSのスタートアップ画面が「謹賀新年」と表示して新年を祝ってくれました。

解説

歴史について

紀元前6世紀頃から揚子江の南部に住んでいたタイ人は、漢民族の圧迫を受けて徐々に南下し、7世紀には雲南地方に達していました。その頃、南海ではジャワのシャイレンドラ王国やスマトラのシュリーヴィジャヤがメコン流域や南タイに影響力を及ぼしていましたが、チャオプラヤー流域に栄えたのはミャンマー及びタイに広く居住していた先住民モン人の国ドヴァーラーヴァティーでした。私の最初のバンコク訪問時に訪れたナコーン・パトムがその首都であったとされていますが、ロッブリーもまた政治的中心地のひとつ(または独立国)であったようです。伝承によれば、そのロッブリーの王女チャーム・ティウィーが7世紀にランプーンに招かれ、ハリプンチャイ王国を建設。その二人の息子がランプーンとランパーンを支配したとされています。

しかし、モン人の国家はいずれも外部勢力との抗争に敗れて行きます。まず南部では、11世紀に進出してきたクメール帝国に圧倒され、そして北部でも、10世紀頃からさらに南下を始めたタイ族が徐々に力を増し、13世紀にチェンセーンに出現したメンライ王がハリプンチャイ王国を征服して、ランプーンの北方の盆地チェンマイにラーンナータイ(「百万の田」の意味)を建国しました。当時東南アジア世界は元の進出によって激動期を迎えており、ビルマ / ベトナム / ジャワはモンゴル軍の攻勢にさらされ、国力の衰えはじめていたクメールは元に臣従を誓っていましたが、そうした間隙を縫うようにチャオプラヤー流域をクメールから奪取したスコータイとも、ラーンナータイは友好関係を保っていました。メンライ王は、スコータイのラームカムヘン大王及びチェンマイの東北にあった都市国家パヤオの王との間に同盟を結び、タイ人王国同士の血族的な絆を強化しています。その後14世紀にアユタヤ朝が建国されると、ラーンナータイはスコータイをアユタヤ朝と奪い合い、15世紀にはスコータイ、ビルマのシャン州地方、雲南省の一部までを版図に組み入れました。また、同じタイ系であるラオ人がクメールの支配から脱して14世紀にルアンプラバンに建国したラーンサーン(「百万の象」の意味)とも婚姻関係により誼を通じています。

しかし、16世紀には強大なビルマ・トゥングー朝が進出し、その後200年以上にわたりタイ北部(及びラオス)はビルマの属国となります。このときアユタヤも陥落し一時的(1569-1593)にビルマの支配下に置かれます。アユタヤ朝のナレースワン大王はビルマ皇太子との騎象による一騎打ちでこれを倒し、アユタヤを奪回しますが、ラーンナータイが独立を回復したのは1767年、14か月にわたる包囲戦の末にアユタヤを徹底的に破壊されたタイが、将軍タークシン(のちにトンブリ王朝を開く)の反撃によってビルマ軍を駆逐した後でした。その後ラーンナータイは、1939年にバンコク王朝のラマ5世によってタイに併合されるまで、国の主権と文化を守り続けました。今でも、チェンマイでは標準タイ語とは異なる方言が話され、また寺院などには古い独自の文字が伝えられています。

カントーク・ディナーについて

タイ北部の伝統料理と古典舞踊を同時に楽しむことができるカントーク・ディナーは、チェンマイを訪れる観光客の楽しみのひとつです。タイ語を話し、もち米を常食とする文化をもつ人々が、特別の行事のときに使う丸いテーブルが、カントークです。ラーンナータイの頃から格式高い伝統儀式で使われたもので、観光客向けに供されるようになったのは比較的最近のことだそうです。我々はオールド・チェンマイ文化センターでカントーク・ディナーを経験しましたが、三角柱を横に倒したかたちの柔らかい肘掛を脇に床に座り、チーク材でできたカントーク(ユアン・カントーク。他に竹と籐で作られるラオ・カントークもあり、これは東北タイ、ラオス、雲南省南部のシーサンパンナ地方で使われています)にさまざまな料理が椀に盛られて出てきます。なお、下の写真を見てカントークの姿に日本のちゃぶだいを連想する人も少なくないでしょう。

カントーク・ディナー

はじめにスープ、竹かごに入ったもち米と普通のご飯、バナナの揚げ物。飲み物は別注文です。カントーク台の上には、

  1. 鶏の唐揚
  2. ビルマ風ポークカレー
  3. キャベツの炒め物
  4. ポーク・トマトのチリソース(5.と6.をつけて食べる)
  5. 豚の皮の揚げ物
  6. 生野菜
  7. 甘く味付けした固いビーフン

が出てきました。椀の中が空になると給仕が継ぎ足してくれます。私のお気に入りはビルマ風ポークカレーで、これだけでもおいしいですし、ご飯も進みます。チリソースはほとんど辛くありませんでしたが、本来は秘伝のナムプリで「とびあがるほど辛い」そうなので注意が必要です。最後には、米を円盤状に揚げたものとコーヒー(または紅茶)が出てきました。

ほぼ食べ終わった頃に北部タイの古典舞踊がスタート。日によって演目は違うようですが、爪の舞から始まり、魔法の鶏の舞、剣の舞やロウソクの舞などを経て、最後に客も舞台にあげての盆踊りのようなラムウォン(輪踊り)で終わります。この日は客が多くて我々は屋内ステージの席になりましたが、屋外ステージの方がムードがあってよいとはキップさんの言でした。

爪の舞 ラムウォン

エメラルド仏について

エメラルド仏(パンフレット掲載の写真)バンコクのワット・プラケオに納められているエメラルド仏。半跏趺座をとり玉座を合わせると高さ66cmのそれほど大きくはないこの仏像は(エメラルドではなく)ヒスイでできており、毎年3回の季節の変わり目に国王自ら衣替えを行うほど尊崇を集めています。そして、北タイを歩くとあちこちでエメラルド仏の逸話に出会います。それは、エメラルド仏が北タイ〜ラオスにおいて時の権力とともに歩んだ歴史に由来しています。

エメラルド仏は1434年、チェンラーイにあるチェディが落雷で破壊され、そこでみつかった漆喰で覆われた仏像の中から発見されたといわれています。チェンマイ王はエメラルド仏を都に迎えようと象を3度送りましたが、そのたびに象はランパーンの町に走ってしまうので、王はこの仏像を守る精霊の意思であると察してエメラルド仏をランパーンのワット・プラケーオ・ドーンタオに安置します。32年後、代替わりしたチェンマイ王はついにエメラルド仏をチェンマイに移し、ワット・チェディ・ルアンの大仏塔の東壁の中に安置しました。1551年、当時のチェンマイ王は皇太子がいないままに他界したため、王女の嫁ぎ先であったラオスのルアンプラバンから王子をチェンマイに王として迎えました。続いてラオスの父王が亡くなったため、翌年、彼はエメラルド仏をもってルアンプラバンに帰国してしまい、さらに1564年にはラオスのビエンチャン遷都に伴ってエメラルド仏もビエンチャンに移りました。

エメラルド仏がバンコクにもたらされたのは、200年以上後、トンブリ王朝のチャクリ将軍がビエンチャンを占領し、戦利品として持ち帰った1778年のことです。このチャクリ将軍が、晩年精神を病んで暴政を行うようになったタークシン王を倒して現在のクルンテープ朝を開いたラマ1世となります。即位2年後の1784年、ラマ1世は新都バンコクにワット・プラケオを建立してエメラルド仏を安置しました。以後エメラルド仏は、代々の王の庇護を受けて今日に至っています。

この仏像がいつ、誰によって彫られたのかは定かではありません。北部タイでチェンマイ様式により、発見された15世紀より少し前に彫られたというのが定説ですが、禅定印を結んでいることや容貌の特徴から、南インドやスリランカから由来しているとの見方もあります。

参考文献:「エメラルド仏寺院の歴史」タイ国宮内庁