今日の夜の飛行機で帰国ですが、その前にロッブリーを観光。モン人が7世紀からタイ南部に建てたドヴァーラーヴァティー国の中心地のひとつであったこの都市は、アユタヤのさらに北にあり、ハリプンチャイ王国の始祖チャーム・ティウィーの生地とされています。そういう意味で今回のチェンマイ旅行との間に一貫性があるのですが、実際にはモン人の頃の遺構は何も残っておらず、10世紀以降のクメールの遺跡、そしてアユタヤ朝のナライ王のもとで副都として栄えた頃の建築物が残るばかりです。
F女史のマンションに迎えにやってきたのはウェンディー・ツアーのマイクロバス。我々以外には日本人の夫婦2組が乗っており、簡単に挨拶を交わして乗り込むと、車は北を目指して走り出しました。ガイドはえらく元気のいい若い女性のメーさん。客の中の一組が、以前参加したツアーで彼女にガイドしてもらったことがあるらしく、「あら、やっぱりメーちゃん?」と喜んでいました。その御夫婦の男性の方が、ロッブリーの「ブリー」とはどういう意味か?と質問していましたが、確かにタイにはロッブリー、ペッブリー、チョンブリーなど「***ブリー」と名のつく都市名がたくさんあって、まぁ何のことはない、「ブリー」とは「都市」という意味です。他によく聞くのは「ナコーン***」「***ターニー」ですが、それぞれ「(水辺の)町」「都」といったところ。北タイには「チェン***」「メー***」という地名も多く、「メー***」は「川」のことですが「チェン」も実は「都」。おそらく南タイの方とは異なる言語に由来するのでしょう。

ロッブリーに着く前に立ち寄ったのがワット・ロイ・プラプッタバート。「仏の足の裏の寺」という名前通り、ここには大きな仏足跡があります。かつて勉強したところでは、初期の仏陀信仰はその舎利を祀ったストゥーパに対する崇拝として行われ、ギリシア・ローマの影響が入る紀元1世紀頃までは仏像は作られず、仏陀の存在を菩提樹や仏足跡、円輪光などで象徴的に表していました。そうした知識が記憶に残っていたのでメーさんに「この仏足跡はいつからここにあるのか?」と聞いてみましたが(うーん、嫌な客だ)残念ながら満足すべき回答は得られませんでした。

それはさておき、この寺の本尊には、自分の身体で具合が悪いところに金箔を貼るとよくなるという御利益があるとのこと。3週間前のアイスクライミング中の落氷で右足を痛めている私は、迷うことなく右の腿と膝に金箔を貼りつけました。他の客も「近頃どうも腰が……」などと言いながら一所懸命貼っています。

ロッブリーに着いてまずサン・プラカーンへ。ここは崩れかけたクメール時代のヒンドウー神殿が裏手にある祠堂ですが、歴史的な意義よりもサルを餌付けしていてサル山のようになっているところが観光客をひきつける場所です。ここのサルは相当の性悪で、眼鏡やカメラを持っていかれないように気をつけるようあらかじめガイドから指示が飛ぶほど。ただ、今日はまだ昼食の時間には早かったのか、果物は置いてあるのにサルはいません。少々がっかりしながら線路を渡ってすぐのプラ・プラーン・サムヨートへ移ります。ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァを象徴する3つのプラーンが連結した遺跡で、12世紀にヒンドゥー教の神殿として作られましたが、その後17世紀のナライ王のときに本堂が増築されて仏教寺院化されたものです。いかにもクメールっぽくていいのですが、町のど真ん中にあって背後のビルやアンテナ塔が写真に入らないようにするのは至難の業、何とも興醒めしてしまいます(下の写真の上にカーソルを置いてみて下さい)。
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そしてサルたちは、こちらにいました。

駐車場に戻ってみると、運転手が座席をはねあげて何やら修理をしています。どうもマイクロバスがマイサバーイ(不調)のようです。仕方なく待つ間、F女史は近くの店でタマリンドの実を山ほど買い込み、私は目の前にある古そうな遺跡の写真を撮りました。ワット・ナコーンコザと名前がついているこの遺跡の由来を知るためにそこに立っている解説板を読もうとしましたが、車が直った様子に解説板の写真だけを撮って引き上げました。

ところが、帰国後に解説板の写真を読んでみてびっくり。そこには次のように書かれていました(明らかな誤字のみ訂正)。
THE ANCIENT REMAINS OF THIS BUDDHIST TEMPLE (WAT) ARE PROOF TO THE CONTINUITY OF SETTLEMENT IN THE TOWN OF LOPBURI WHICH STRETCHES BACK A LONG TIME. THE PRINCIPAL CHEDI HAS FOUNDATIONS DEEP IN THE SOIL, ABOUT 4 METERS DOWN AND IS OF THE DVARAVATI SCHOOL ART (8th-10th A.D.). THE PRANG IS MADE OF LOPBURI CRAFTSMANSHIP OF ABOUT THE 11th-12th c A.D. THE VIHARA AND THE UBOSOT ARE AYUTTHAYAN WORKS OF ART BELONGING TO THE REIGN OF KING NARAI WHO HAD COME TO LOPBURI TO RESIDE IN THE 17th CENTURY A.D.
見たいと思っていたドヴァーラーヴァティーの遺構が、そこにあったのでした。
続いてウィチャーイェン・ハウス。アユタヤ朝19代のナライ王(在位1657-88年)は、年のうち8か月余りもロッブリーで暮らし、そのため交易のために渡来した西欧人たちもここに多く住んでいました。ウィチャーイェン・ハウスは、フランス国王ルイ14世が派遣した外交使節のためにナライ王が建てた公邸です。正面奥は教会、右手はフランス大使館、左手に王に重用されたギリシャ人フォールコン(タイ名ウィチャーイェン)の住居。当時ナライ王はオランダのインドネシアから半島への進出、英国東インド会社との緊張関係の中で親フランス政策をとっており、フォールコンはナライ王の側近としてフランスとの外交関係を一手に引き受けていたのでした。しかしフォールコンの末路は悲惨でした。フランス軍の駐留、イギリス東インド会社との戦争、さらにフランスがナライ王のキリスト教への改宗を企てたことなどに対する反感が国内に排外気運を生じ、後継者を得ないままにナライ王が重病の床に着くと軍人ペートラーチャーがクーデターを起こして王位に着き、フォールコンを処刑。以後、タイはビルマによるアユタヤ破壊まで鎖国への道を進むことになります。

ナライ王の宮廷外交の舞台となったナライ・ラーチャニウェート宮殿は、1677年にナライ王によって建てられ、その後荒廃していたものをラマ4世が修復したもの。ナライ王の住居は現在博物館となっており、中には欧州との外交関係を示す遺品や古地図などが展示されています。裏手には伝統的な民具などを展示する小博物館もありますが、特に漁具は日本のものと同じに見えました。ナライ王が外国の大使らを謁見するためのホールは荒廃していますが、謁見場にいる王に対して下から棒のついた台を高く掲げて国書を手渡す外国使節を描いた絵そのままの造りが興味深いものでした。そして門をくぐって外に出たところにあるレンガの基壇は、1688年にナライ王が亡くなった場所です。このロッブリーの都をこよなく愛し、西欧諸国にまで名の知れ渡った偉大な王の終焉の地としては、なんともあっけらかんと寂しいところでした。