15時半までぐっすり眠ってから外に出てみると、いつの間にか曇り空になっていました。まず漆工房の「U Ba Nyein」へ行って、この地の名産品である漆製品の製造過程を見学しました。面白いのは馬のしっぽを使っていることで、竹と組み合わせて器の形を作るのにその長い毛が使われています。絵付けのところでは、まだ10代前半の子供や若い女性が下絵も見ずに細かい模様を刻み込んでいく手練の技に脱帽しました。ミャンマーの漆は11世紀からあるという説もありますし、ずっと後にアユタヤ攻略の際に職人を連れてきて始まったという説もあります。F女史は例によって必死の形相でショッピングに精を出していますが、100年前の漆の器300USドル也にはすっかり悩んでしまったようです。これはとりあえず時間をおいて考えることにして、マヌーハ寺院へ向かいます。

マヌーハ寺院はオールド・バガンの南にあるミィンカバー村にあり、外見は何ということもない建物ですが、特徴はその内陣に目一杯の大きさで据えられている3体の座像と1体の涅槃像です。マヌーハはモン族のタトォン国の王で、アノーヤター王が三蔵を求めたときに無礼な言葉で断ったために1057年に侵攻され、自身も捕虜となってバガンに連行されてしまいました。そのマヌーハが許されて建立したのがこの寺院で、窮屈な座像はマヌーハの鬱屈した心境を、涅槃像は死によってのみ自由になれるという思いを表わしたものといわれています。この話からわかるように、ミャンマーの仏教はスリランカからモンへ、そしてモンからミャンマーへと受け継がれた南伝仏教=上座部仏教です。なお、チョチョルィンさんの解説によれば、涅槃像と寝釈迦(休息像)の違いは、前者は目をつぶっており足の裏がそろっておらずそこには何も描かれていないのに対し、後者は目をつぶっておらず足の裏が揃い、そこに108の煩悩のシンボルが描かれていることだとのこと。また、ここの仏像の写真を家に貼っておくと火事にならないと信じられているのだそうです。

ここから馬車に乗ってミィンカバー村の奥へ。竹を縦横に編んだ壁、棕櫚などの葉で葺かれた屋根を持つ高床の家が多く、白い水牛もたくさん見かけます。この水牛を見てF女史が「奥村土牛の牛ね」と言っていましたが、まさに奥村土牛が「聖牛」と題して描いた牛そのままです。馬車はさらに走って、すっくと高いシュエサンドー・パヤーへ。非常に傾斜の急な階段を一所懸命登ると、上のテラスからはすばらしい眺めが広がります。四角い仏塔の4つの辺からバガンの大平原がぐるりと見渡せ、まさに絶景です。

今でも2000基以上(後世に建造・修復されたものを含めれば3000基)の仏塔が林立しているこの広い平原を眺めると、この地の仏教が極めて熱烈な信仰と帰依を集めたアクティブな宗教だったことがよくわかります。王族や金持ちはこぞって仏塔を建て、競って寺院に寄進したのです。そこに投じられた富とエネルギーは、王国の財政を揺るがす程であったでしょう。

残念ながらサンセットは雲のために見ることができず、階段をこわごわ降りて車でミャー・ゼディーへ。「エメラルドのパゴダ」ともいうこの仏塔の脇には石碑(レプリカ。本物は博物館にある)があり、パーリ語・モン語・ピュー語・ミャンマー語でチャンスィッター王の事蹟を讃える文章(ミャーゼディー碑文)が書かれているそうです。隣のグービャウッヂー寺院の中には、見事なフレスコ画があり、釈迦の前世譚である500以上のジャータカなどが描かれています。もちろん撮影は厳禁です。

しかし、この間F女史はずっとあの漆器のことが頭から離れていなかったらしく、一通り見学が終わった後で再びあの漆屋に行き、さんざん粘って260USドルでゲットしました。
夜はSithu Restaurant。屋外で伝統芸能を観ながらミャンマー料理を食べるという趣向。スティールドラムのような音を出す打楽器とラッパが中心の楽士が数名いて、その横に舞台がしつらえられ、人形劇や舞踊、それに雑技が披露されます。人形劇は上からひもで動かすあやつり人形で、宙返りもする動きの激しいものですし、雑技の方はこれもミャンマーに古くから伝わる蹴鞠のような技をさまざまな物の上に乗ってバランスをとりながら披露するもので、なかなか見ごたえがありました。料理も海老や鳥肉のカレーなど多岐にわたりおいしかったのですが、実を言えばものすごい数の羽虫が飛び回っていて襟元といわず袖口といわず飛び込んでくるために、落ち着いて劇を見たり食事を楽しむといったゆとりがまったくありませんでした。
