暗いうちに起きて身支度をし、ベッドの枕の下にCHF10紙幣を忍ばせました。窓の外にはどんより曇った空の下、マッターホルンがツェルマットの村と共に静かに眠っているのが見えます。足音をたてないように階段を降りてホテルの外に出ると、ひんやりした空気が爽やか。ツェルマット駅を5時55分発の列車に乗り、来たときと逆コースを辿ります。ブリーク経由でチューリヒ国際空港に着いたのが11時過ぎ。土産を買う時間もあまりないまま慌ただしくボーディングタイムを迎え、シンガポール行きの飛行機がスイスの大地を離れたのは14時前でした。

こうして、二度目のマッターホルン挑戦はまたも天候に泣かされる結果となりました。マッターホルンは、ことヘルンリ稜からのノーマルルートに関する限り技術的にはさほど難しい要素を含んでおらず、高所の影響や体力といった点に関してもこれまでの経験からみて大きな障害はないと踏んでいます。そういう意味ではどこまでもこだわり続けるほどチャレンジングな登攀対象というわけではないのかも知れません。しかし、高さだけからいえばモンテ・ローザやドムに劣るマッターホルンがこれほどに人気を集めるのは、やはりその完璧なまでの美しい四角錐、独立峰としての見事な立ち上がりが、純粋に高みに立ちたいという人間の本能を刺激するからではないでしょうか。だから、DNAに刷り込まれた登高欲が、これからも私をマッターホルンに、そしてスイスの山々に向けさせることになるのでしょう。あいにく来年は仕事上のピークを迎えることが予定されており、その後もおいそれと夏に1週間の休みをとれる状況にはならない可能性があります。しかし、ポリュックスでご一緒した日本人Kさんは、齢60歳にしてこのテストを通過し、マッターホルンに登られたとのこと。そのチャレンジは私が帰国した日で、残念ながら前夜に雷雹に見舞われ、ソルベイ小屋の先まで登ったところで引き返すことになった(山頂で動けなくなったスペイン人パーティのヘリ救出といった場面もあったとか)そうですが、ポリュックスで拝見したその強さからすれば、気象条件に恵まれさえすればK氏は問題なく登頂を成し遂げておられたはずです。私がK氏の年齢に達するまであと15年もあります。今の体力と技術を維持し続けることはなかなかにしんどいことではありますが、それまでの間にツェルマットを訪れる機会は、いずれまた得られるでしょう。