リッフェルホルン

日程 7月 8月 写真集
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朝、GGB登山鉄道の駅で待ち合わせたガイドは、トーマスといって長身で誠実そうな風貌の男でした。すぐに登山鉄道に乗りこんで端の方の席を占めましたが、近くの席にイタリア人の若者二人と日本人の女の子二人という変わった組み合わせの4人組がいてお互いに片言の英語で楽しそうに会話をしています。そしてそのイタリア人の若者が、どういうわけか大きなセントバーナード2頭を連れていました。セントバーナード達は、首に小振りの樽をぶら下げ、若者の指示にしたがっておとなしく床に寝そべっていますが、いったい彼らは何のために登山鉄道に乗っているのだろう?

謎のセントバーナード

それはともかく、相変わらずすばらしい景色の中を列車は高度を上げ、途中しきりに駅間で停車しながらも1時間弱で目的地のローテンボーデン駅に到着。目の前には、去年も登ったリッフェルホルンの岩峰が盛り上がり、リッフェルゼーの湖面の向こうにマッターホルンがすっきりした姿を見せています。駅前のハイキング道をいったん下ってリッフェルホルンの左から南壁へ回り込むように登り返し、標識が立っている場所でハーネス装着の指示が出ました。F女史は履き慣れた軽登山靴、私はスニーカーからクライミングシューズに履き替えました。このクライミングシューズ(マムートのベルベット)、海の日の連休に北岳バットレスでデビューを飾るはずだったのに雨のために空振り。そのため今日が本当の初登攀です。スイスアルプスの岩山でデビューを飾れるとは幸せなヤツ……と自分で勝手に感慨に浸りながら靴を履いていると、トーマスから「おっ、クライミングシューズだね。でもマッターホルンではこういう(と自分の靴を指差して)アイゼンが着けられるタイプでないと登れないよ」と注意が飛びました。もちろん私もそれは先刻承知。ここで気づくべきだったのですが、私が既にマッターホルンのテストに合格していることは昨日アルピンセンターでクリスティンに示してあり、今日はロッククライミング初心者のF女史のために簡単なルートを気軽に登りたいという希望を伝えてあったのに、そのことがトーマスには伝わっておらず、トーマスは私のマッターホルン行きのテストのつもりでいたのでした。そうとは知らない我々は、トーマス〜私〜F女史の順にロープにつながれたまま気楽な気持ちで南壁下部のトラバース道に入っていきました。

リッフェルホルンのルート図

トラバース道をしばらく進んでとあるルートの取付に到着。目の前にはずいぶん傾斜のきついスラブ壁が立っており、トーマスはボルトにかけたカラビナにロープをインクノットで留めて「上からOKと言ったらこれを回収して登ってくるように」と言い残してゆっくりとしたリズムで登っていきました。しばらくして、上部の右壁を回り込んだ先から声がかかり、私、数m間をおいてF女史が後続しました。グレードとしてはおそらくIII級、クライミングに慣れた者にはなんということもない場所ですが、F女史をびびらせるのには十分な難しさであるらしく、F女史は早くも顔がひきつっています。

リッフェルホルン登攀

ここでF女史の名誉のために言っておくと、もう何年も前のことではありますが、F女史は単独で槍-穂高連峰の大キレットを渡ったこともあるし、通常の縦走ルートに毛が生えた程度の岩稜なら苦もなく歩く程度の技術はもっています。しかし、ここは岩が堅く快適とはいえ、技術的には完全にクライミングの領域。そこをビブラムソールの軽登山靴で登らされているのですから、気の毒といえば気の毒です。たとえて言うと、高尾山にしか登ったことがないハイカーがいきなり前穂高岳の北尾根に連れて行かれたようなものでしょう。ルートは70度くらいの傾斜の快適な数ピッチを過ぎてから、岩がかぶったところで右へトラバースし、さらに2ピッチで尾根の上に出ましたから、おそらく上の図のFルートを最終1ピッチは「4」とグレーディングされたところへ出たのだと思います。その後、去年も通った岩がつるつるの場所を越え、クラックが走る垂壁を直登して、さらに1ピッチで頂上部へ抜けました。この間のF女史の奮闘ぶりについては、ここに詳述するに忍びないのですが、とにかく最初手にしていた軍手を途中で片方失い、露出した手の甲は傷だらけ(あとでホテルに戻ってみたら両膝もあざだらけ)。そして、各ピッチの核心部で進退窮まったF女史の絶叫がこだまするたびに、トーマスは天を仰ぎ、私は後続のロープを握る手に力をこめたのでした……。

私にとっては楽しく、F女史にとっては寿命を縮めた数ピッチのクライミングが終わって頂上に到着し、ここで大休止。背中のザックを降ろし、水を飲んだりパンやリンゴやチーズを食べたり。トーマスは我々に、周囲の山々や氷河の名前を指差しながら教えてくれました。するとそのとき、山頂の北側の斜面を少し下ったところのテラス状の場所にヘリコプターが爆音をたてながら近づいてきました。見ればそこには登山者が2名いてヘリを待っていた様子ですが、ヘリはその狭いテラスにローターを回したまま接地してそのふたりを収容し、さっさと飛び立っていきました。我々はヘリの恐ろしく正確な操縦ぶりに呆然としながらことの成り行きを見守っていましたが、「あれは何だったんだい?」という我々の質問にトーマスも「軍用機だったから何か特別なことがあったのでしょうが、よくわからない」と不審顔。

救助ヘリ?

この後、F女史を山頂に残してマンツーマンでマッターホルン向けのショートトレーニング。昨年もやりましたが、ロワーダウンで20m程下ってから太いフィックスロープを使いゴボウで登り返すというやつです。調子にのってすごいスピードで登り返してみせたら、トーマスは「おーすばらしい。ではもう一度」(!)。最初で力を使い果たした私は2度目は案の定スローペースでトーマスのもとへ登り着くと、ここでトーマスから注意が飛びました。「テクニックは完璧だね。しかし、マッターホルンでは4,000mの高度の中で行動しなければならないから、体調の維持が重要だよ。今のようなところはスピードを出すのではなく、無理のない一定のペースで登った方がいい。登頂予定日は木曜日?それなら明日は朝のうちにクラインマッターホルンまで登って、低酸素に身体を慣らしてからヘルンリヒュッテへ入るといいだろう」。

さらに周辺の斜面で下り斜面での足さばきの確認をしてトレーニングは終了。おとなしく待っていたF女史のもとに戻ってロープを結び直してから、北斜面を私を先頭にクライムダウンしていきました。完全に安定した場所に降り立ってやっとロープをはずし、ハーネスもザックにしまったところでトーマスが「アルピンセンターからのバウチャーは?テスト合格のサインをしなければ」と言って、ようやくここで上述の行き違いがあったことが判明しました。F女史は「これはマッターホルンのためのテストだったのか!そんなの聞いてないよ」とおかんむり。すみませんねぇ。

ゴルナー氷河の向こうにモンテ・ローザ

モンテ・ローザからなだれ落ちるゴルナー氷河を正面に見る道の途中で、まっすぐ下るトーマスと周辺を歩いてからゴルナーグラートへ上がる我々とは別れることにしました。トーマスは握手しながら「マッターホルン登山が天候に恵まれることを祈っているよ」と声を掛けてくれました。うっ、またしても天気の話題。週間予報が悪いのかな?と思いながらトーマスに感謝の言葉を返して、我々はリッフェルゼーの方へ向かいました。この湖は逆さマッターホルンが映ることで有名で、湖畔に立ってみると岸辺こそ水藻が漂っているものの、前方にはガラスのように透明感のある湖面に期待通りマッターホルンの四角錐が映りこんでいてすてきな眺めです。左手には先程までF女史が悪戦苦闘していたリッフェルホルン。といってもクライミングルートは反対側の南壁なのでこちらからでは見えませんが……。

リッフェルゼーからのマッターホルン

GGB登山鉄道ローテンボーデンの駅からGGB登山鉄道に乗って1駅で、終点のゴルナーグラート展望台。駅を出て舗装された道を少し登ると天文台のような施設を乗せた石造のホテル / レストランがあり、テラスは鈴なりの観光客で一杯。その先に少し進んだ場所にある展望台からは、ブライトホルンからモンテ・ローザまでの4,000m峰の屏風のような連なりが間近に見え、そこから圧倒的な質量をもって落ちてきている氷河群の全容を眺めることができてすばらしい景色です。

ブライトホルンからの眺め ←click!!

振り返ればレストランのテラスの向こうに尖ったマッターホルンの姿。しかし、その尖塔は不吉なグレーの雲に巻かれつつあります。広がる不安を押し殺しつつ、レストランに入ってF女史とまずはビールで乾杯。いや〜、うまい。そして注文したレシュティ(細切りにしたジャガイモをパンケーキ状に焼いたもの)の上に味の濃いソーセージがトグロを巻いているものは、見た目はともかく、味は「超」がつくほどのおいしさでした。

ゴルナーグラート展望台

セントバーナードの正体おいしいビールとおいしいソーセージ、レシュティにすっかり満足してレストランを出て、売店で絵葉書を買ってから駅へ向かう途中、ふと見ると朝方出会ったセントバーナード諸君の姿が。近くにあった看板でやっとわかったのですが、彼らは観光客と一緒に写真に収まることでお金をいただくモデル犬だったのです。なるほど、首から樽をぶら下げたレスキュー犬はスイスのシンボルのひとつ。それに子供は概して犬好きだから、一緒に写真を撮って喜ぶ観光客も多いのでしょう。

GGB登山鉄道で下る途中、ローテンボーデンでは雪山装備を持って乗り込んでくる登山者が多いのに驚きました。リッフェルホルンは雪のまったくない岩山だし、もちろんゴルナーグラートからここまでもそんな装備は不要です。しかし、その疑問はホテルの部屋に戻って地図を見ているうちに氷解しました。その地図には、ローテンボーデンからゴルナー氷河沿いに伸びた道がモンテ・ローザ・ヒュッテへ続いていることが赤い線で示してありました。してみると、あの登山者達はモンテ・ローザ登山を終えて下ってきたのに違いありません。万一マッターホルンのコンディションが悪くなった場合は、モンテ・ローザへ転進してもいいかなと思いながら、私はソファに寝そべってぼんやり地図を眺め続けました。

……この日19時過ぎ、とうとう雨が降り出しました。