今日はブライトホルン(4,165m)に登る日。「登る」といっても、標高3,820mまでロープウェイで上がって、そこから緩やかな雪の斜面を300m余り登るだけだから、実にお手軽です。7時50分に、今度は村の奥にあるゴンドラ駅前に集合しました。今日のガイドは赤ら顔の中年のおやじで、お客は他に米国人の親子。クラインマッターホルン展望台のすぐ下の駅までゴンドラとロープウェイを乗り継いで上がり、トンネルのような通路を抜けて外に出ると目の前に広々とした雪原(プラトー)が広がっていて、その向こうのずいぶん近いところにブライトホルンが山頂を見せています。米国人の父親はあまりの好天と展望に笑いが止まらない様子で、「まったくすばらしい。信じられない」を連発していました。ここからはスキーのゲレンデが水平に伸びていてスキーヤーやスノーボーダーも多いようですが、我々はしばし歩いてコースを離れたところでアンザイレンしました。要領は昨日と同じで、ガイド・父親・息子・私の順に3mくらいの間隔をあけてつないでからプラトーを歩き出しましたが、「ゆっくり行くぞ」と言われたわりにはけっこう足が速く、息が切れそうになりました。
一見したところプラトーはどこでも歩いて行けそうに思えますが、実際はあちこちにクレバスが隠されていて、ちゃんと踏み跡がつけられたルートを歩かないと危険のようです。実際、翌日この地方を強力な雷が襲ったのですが、その際にブライトホルンで行方不明になった者が何人かいて、それはホワイトアウトの中をさまよってクレバスに落ちたのに違いない、とヘルンリヒュッテで知り合った日本人ガイドから教えられました。

しかし、今日のプラトーはまったく平和で、ほぼ水平の道をしばらく歩いてから斜面にかかるあたりでアイゼンを装着。さらに少し登ってから左に斜上するようになります。小さなシュルントを越えたあたりから登り下りの列が行き交うようになりましたが、米国人親子は高度のせいか息が上がってきたようです。しかしガイドは「ゆっくりでいいから休まずに歩き続けるように」と注意を出してなるべく休ませないようにします。それでも雪稜に出て折り返し右上するようになると山頂はすぐで、歩き出して1時間あまりで、山頂標識も何もない、きわめて眺めのよいてっぺんに到達しました。

率直に言って、このノーマルルートでのブライトホルン登頂は、普通に雪山を歩ける者であって天候に恵まれさえすれば、ガイドの手助けを借りる必要性は皆無です。そこでハーフトラバースというのはどういうルートかとガイドに聞いてみるとこの先の下の方から50度の雪の斜面を登るルートだと説明を受け、それならそちらの方が面白かったかも知れないとちょっと後悔しましたが、今日は高度馴化がテーマだし疲れをためるのも得策ではないのだから、と自分を納得させました。それにしてもここからの展望はすばらしく、前方にポルックス(4,092m)とカストール(4,228m)の双子のピーク、そしてリスカム(4,527m)、モンテ・ローザ(4,634m:アルプス第二の高峰であり、スイスでは最も高い山)への稜線が伸びていて、それは左へさらに伸びドムに至ります。これらの山々にもグレードの高いガイドプランが用意されており、またツェルマットへ来る機会があればトライしてみたいものだと思いました。

そして、振り返るとマッターホルンが東壁と南壁を見せた不思議な角度で立っており(右の写真中央)、そこから雪と氷に削られた山稜が左に続いて尖ったところがダン・デラン(4,171m)に違いありません。よく北アルプスの槍ヶ岳を「日本のマッターホルン」といいますが、こうして見た感じではマッターホルンはピラミッド部分が巨大すぎて槍ヶ岳にほとんど似ておらず、むしろダン・デランの方がそっくりだと思います。それはともかく、視線をさらに左に向けると、地平線方向に層をなす霞の中に隠れるように大きく白い山体が見えて、それがアルプス最高峰のモンブランでした。
すばらしい展望を堪能して、来た道を下山。アイゼンをはずしたところで小休止し、軽く食べ物・飲み物を口にしました。米国人親子はこれが初めての4,000m峰で、私の方は「ここはキナバル、キリマンジャロについで3つ目の4,000m超だが、展望はここがベストだ」と言うと、ガイドはそりゃそうだろうという顔をしています。

ロープウェイの駅の前で解散し、エレベーターと階段でクラインマッターホルン展望台(3,883m)に登ってみました。富士山よりも高いこの場所まで交通機関を使って簡単に登れるというのが、なるほどさすがスイスです。この頃から雲があたりを流れるようになっていて、あいにくマッターホルンは隠れてしまいましたが、展望台の正面中央に立つ十字架像の真下に広がる氷河の向こうに目を上げるとヴァイスホルン(4,505m)の白い姿が鋭く、そのまま右へぐるりと見渡すとドムなどのミシャベルの山々、そして先程登ったブライトホルンの大きく丸い山頂部がすぐ近くに見えます。その右のプラトーにも既に雲がかかっており、これは確かに方向を失ったら怖そうだと思いました。
ホテルに戻ってゆっくりパッキングをし直し、夕方、ふらりとアルピンセンターに行ってマッターホルン登頂の最終手配を行いました。ホテルからアルピンセンターまでは片道10分程度の手ごろな散歩道といった感じで、よいリフレッシュになります。そしてこの夜、到着以来ずっと好天だったツェルマットに20時頃から雷が鳴り響き、やがて雨が降ってきました。ホテルの部屋ですることもなくテレビのチャンネルを回してみると、リチャード・ギアとジョディ・フォスター主演の『ジャック・サマースビー』をやっています。あいにくドイツ語吹き替え版でしたが、前に観たことがあるのでストーリーを追うには困らず、やはり久しぶりに観ても泣ける映画でした。その後、さらにチャンネルを回していたらこの夏の猛暑によるマッターホルンのルート崩壊についての特番をやっていました。けっこう派手に崩れていて、登山者がヘリで吊るされる模様とかガイドたちが浮き石をがんがん落としてルートを復旧している様子などが映っていました。本当に、数日の差でルートが使えたり使えなかったりするのですから、登山というのは「運」の要素がずいぶん大きいのだと再認識しました。