登山家にして作家、深田久弥の代表作「日本百名山」に掲げられた百の山々への巡礼。
1984年の男体山からスタートして、北は利尻岳から南は宮ノ浦岳まで、百の頂にある百の憩いを求めていつ果てるともなく続いていた私の旅も、1998年の富士山でピリオドを打つことができました。
そしていつかは、この長い旅を通じて知ることができた、ナキウサギの甲高い声やフレップの赤い実が迎えてくれる北海道の夏の原始の山々や、錦秋の彩りの中から豊かで密やかな歴史を語りかけてくれる東北の山々を、あらためて思いのままに、そして丹念に訪ね歩きたいと思っています。
多くの場合がそうであるように、私も山登りの初めから百名山を意識したわけではありません。振り返ってみると、1983年の神戸勤務時代に同じ課のN氏に六甲全山縦走に誘われたのが山登りに親しむことになったきっかけで、東京に戻ってからも数年は丹沢や奥多摩などの日帰り山行が中心でした。そうした自分の目を低山から高山へ向けさせてくれたのは、兵庫から東京に戻ってきてしばらくした頃の職場の同僚で韮崎出身のKさんの偶然の示唆で、彼女の甘利山登山の話からその背後にある鳳凰三山に興味をそそられたのが1986年、日本アルプスへのデビューです。新潮文庫版の「日本百名山」を読み、その完登を志したのは1989年の正月のこと。その時点で南アルプスや奥秩父を中心に18座に登っていましました。そこから8年半でのゴールインは速いペースだったと言えるかも知れませんが、その達成に長期間を要する目標を設定し、これを着実に前進させてゴールに至る成功体験を得ることができたのは、幸運だったと思います。
百名山時代の私の山行の特徴のひとつは「単独行」です。自分の好きな山に自分のスケジュールに合わせて計画を組み、自分のペースで登る単独行は、山登りのひとつの理想形と言えると思います。百名山に関しても51座が単独行でしたが、しかし、アプローチの長い山、日数を要する山では、パーティーを組んでの登山が有利であることは間違いありません。南アルプス・北海道の山々に御一緒いただいたK・S両氏、最後の富士山を含む32座につきあってくれたF女史ほかの方々の存在がなければ、いまだ多くの山が手付かずで残されていたはずです。この場を借りて、これまで山行を共にして下さった皆さんにあつく御礼を申し上げます。
「百名山」を追うことについては、世上に批判も少なくありません。とりわけ、ピークハントのみを目標としたスピード登山の横行は、本来の登山のありようとは異なるのではないかとの意見が山岳雑誌に繰り返し表明されています。たしかに、たとえば大雪山系や朝日連峰のように、その山域を一体として味わうことに価値がある山も多く、自分もできるだけ広範囲の縦走を心掛けるようにしてきましたが、それ以上に百名山がなければ出会えなかっただろういくつもの山々に登るきっかけを与えてくれてきた点にこそ、百名山を辿る意味はあったと感じます。思い出深い山旅ができた斜里岳をはじめとする道東の山々や東北の飯豊・朝日、上信越の平ヶ岳、九州の久住などは、百名山がなければあるいは知ることもなかったかもしれません。そして、これらの山を登る過程で、特に北海道・東北の山への関心はさらに増しており、「百名山後」の山行リストを豊穣なものにしてくれています。これが、自分にとっての百名山の価値だったように思います。
日本百名山を登り終えた今、これからは本当に気の向くままに山に登ることができます。北の山々への新たな挑戦、懐かしい山域への季節とコースを変えての再訪、海外の山への遠征、バリエーション・クライミングへの挑戦などなど。さらに、これまでは自分(だけ)のための山登りでしたが、これからは周囲の人たちに登山の楽しさを伝えるという、自分にとって新しい登山の目的も見えはじめています。こうしてみると山に登ることそのものが、長大な山脈の縦走のように、新たな目標の発見と達成の連続体なのかも知れません。
〔1998年8月記〕