能の正式な上演方法は、最初に「翁」を置き、引き続いて脇能、修羅物、鬘物、四番目物、切能。それぞれの主人公の性格から「神・男・女・狂・鬼」という言葉があり、この五番のおのおのの間を狂言でつなぐという長大な番組になります。現代では能の上演時間が中世の2倍に伸びていることもあって、なかなかこうした五番立てを観る機会はないのですが、この式能は数少ない五番立て、それも五流(金春・宝生・金剛・喜多・観世=この日の出演順)が一堂に会する貴重な機会です。今回、この式能で朝の10時から夕方19時まで一日どっぷり能に浸かるという体験をしました。
翁
金春流。「翁」とは、能にして能にあらず、これといったストーリーを持たない神聖な祝典曲。したがって「翁」開演中の見所への出入りは一切禁止。猿楽から発展した能の原初の姿を色濃く残し、また文楽や歌舞伎の三番叟物を派生した、言ってみれば日本の芸能の原点に位置する演目です。出演者は全員、面箱を先頭に橋掛リを渡って舞台に立ち、地謡は後座、小鼓は三丁。そして囃子方・地謡・後見が素袍裃に侍烏帽子の礼装という特殊な決まりを持っています。翁が正先で礼拝して座につき、その後に一同が着座するというのも、厳粛な雰囲気です。座着キの笛、そして小鼓三丁の特徴的な演奏に続いて翁のとうとうたらりたらりら。たらりあがりららりとう
と、呪文のような詞章から始まる厳粛な謡。続く千歳の舞は、舞台の床を踏み抜かんばかりの気合のこもった足拍子を伴うダイナミックなもの。そして白式尉の面を舞台上でかけた翁が万歳楽と天下太平を寿ぐ翁ノ舞は、その目出度い趣旨とは裏腹に、目付へとにじりよる姿が不気味で背筋に冷たいものが走るほどの静かなインパクトがありました。面をとり翁が退場(翁帰リ)して大鼓の華やかな囃子になると、それまで一ノ松の陰に控えていた三番叟がむくりと身を起こして、これまた一種異様な緊迫感。そこから直面のままダイナミックな揉ノ段がひとしきり舞われ、いったん後見座で後ろを向いて黒式尉の面をかけますが、このときすでに野村万作師は荒い息で、その苦しげな呼吸音が静寂の中に響き渡ります。続いて千歳との問答の後、これも渾身の鈴ノ段。
どこかにユーモアをたたえた文楽や歌舞伎の三番叟物はこれまで何度も観ているのですが、能の「翁」はそれらとはまったく別物の、厳粛な儀式でした。文楽ファン、歌舞伎ファンも、一度はこの「翁」を体験してみるべき。今まで見てきた三番叟物は、いったい何だったんだ?とうなること請け合いです。……などと考え込んでいるうちに、舞台上では演者の配置が変わってそのまま脇能へ移ります。
竹生島
脇能というのは「翁」に付属する能、という意味。神仏が主人公となる能で、ワキも勅使である場合が多いそうです。ここでは醍醐天皇の臣下が竹生島に参詣して、弁才天の舞と龍神の舞働という奇瑞に出会うという筋で、金春系の能とされています。前場で釣舟に乗せてもらって竹生島に渡ったワキが、同船して島に上がった女をみて女人禁制ではないのか?といぶかると、女は弁才天であると明かして小宮の作リ物に中入し、また同じく舟に乗っていた老人も湖の主であると告げて中入。ここでアイがワキに竹生島神社の御宝物を披露するのですが、鍵やら数珠やら、あるいは竹生島の名の由来となった二股の竹はいいとして、馬の角やら牛の玉やら、さらには何やらの脇毛などワケのわからないものをありがたげに見せて笑いを誘います。最後は岩飛びで水に沈んでしまい、くっさめ!で退場。後場では、天冠・長絹・白大口も優雅な弁才天のふわっと柔らかい舞と、龍を頭上に戴き赤髪にギラギラの法被をまとったド派手な龍神が舞台狭しと飛び回る舞働を見せました。
福の神
二人の参詣人が福の神の御前で豆をまいて囃していると、面をかけた長者風の福の神が高笑いとともに現れます。富貴になりたいという二人に福の神は、元手がなければ富貴になられぬぞと言いますが、二人は元手がないからこうしてお祈りに来ているのではないか、とユーモラスに逆襲。しかし、福の神が言う「元手」とは慈悲であったり夫婦愛であったりで、そして最後には「福の神にはいやというほど酒を盛れ」と手前勝手な心得を授け、わーっはっはと胸のすくような高笑いのうちに留まります。この狂言も、福の神の存在が先の「翁」からの引き続きでどこかに厳かな気分を漂わせていて、四人の地謡もそうした厳粛さに一役買っていました。
俊成忠度
宝生流。一ノ谷で討たれた平忠度の最期の様子は、平家物語の中でも最もドラマティックな部分のひとつ。その最期の様子を織り込んだ複式夢幻能「忠度」は有名な曲ですが、こちら「俊成忠度」はシンプルな構成で忠度の霊が和歌への執着と修羅の苦患を示します。忠度作の有名な和歌は、次のふたつ。
さざなみや志賀の都はあれにしを 昔ながらの山櫻かな
行き暮れて木の下蔭を宿とせば 花や今宵の主ならまし
「忠度」では後者の歌が重要なモチーフになっていますが、「俊成忠度」では前者がクローズアップされます。平忠度は都落ちに際して和歌の師である藤原俊成に自分の歌が百余首おさめられた巻物を託し、その後千載和歌集にさざなみや
の歌が収められたのですが、朝敵であることを憚って「詠み人知らず」とされてしまいました。「俊成忠度」は、そのことに割り切れない想いをいだく忠度の霊が俊成のもとへ恨みを述べに現れるものの、俊成との問答によって妄執は落ち着き、およそ歌には六義あり
から和歌の徳を二人で語り合います。ところがあら名残惜しの夜すがらやな
から忠度の様子が変わって修羅の闘争に引き込まれて刀を振るい、天よりは火車降りかかり、地よりは鐵刀足を貫き
と責め苦にあえぎます。しかしややあってさざなみや
の歌に梵天も感じ入ったことで責め苦を逃れ、忠度は夜明けの光の中に消えて行きます。わずか30分あまりの短さで「えっ、これだけ?」という感はありましたが、ダイナミックな曲でした。
蝸牛
理屈抜きの賑やかな狂言。まず登場するのはエネルギッシュで下品な「山伏でーす!」。手頃な竹薮を見つけて、昼寝としゃれこみます。一方、太郎冠者は主人から長寿の薬になる蝸牛を探すよう命じられますが、この太郎冠者はいかにも人がよさそうで、しかもちょっとねじが抜けている感じ。蝸牛がどんなものか知らないと言うと、主人は「頭黒く、腰に貝をつけ、折々は角を出す。人の大きさで、薮には必ずいる」と説明するので、見所はすでにくすくす。くだんの竹薮にやってきた太郎冠者は山伏を起こしてあなたが蝸牛?と問いますが、最初は「?」という感じだった山伏もいたずら心を起こして、「何を隠そう身共でおりゃる」と名乗ります。見れば山伏は頭に黒い兜巾を戴き、腰には法螺貝。角を出す……のところもなんとかごまかして、しかし約束が多いので太郎冠者の主人のところへは行かれない、と焦らします。困った太郎冠者、それならと山伏は、実は囃子物が好きだと語って太郎冠者に囃させます。雨も風も吹かぬに、出な釜打ち割らう
でんでんむしむし
。二人で浮かれ囃しているところへ、太郎冠者の戻りが遅いのを心配した主人が現れて、太郎冠者にあれは蝸牛ではなく山伏だ、売主だと言ってたしなめます。ところが太郎冠者はまたも山伏の囃子物につり込まれてしまい、最後は主人までも一緒になって囃しながら橋掛リを下がっていきます。
この日の式能第一部はここまで。しばらく入れ替えの時間をおいて、15時からの第二部も第一部と同じ席につきました。残るは女・狂・鬼。
雪
金剛流にしかない演目。ストーリーは極めてシンプルで、野田の里で雪に降り込められた旅僧の前に若い女の姿で雪の精が現われ、迷いを晴らしてくれと頼むので、僧が仏縁を結んで成仏するよう勧めると、精は喜んで廻雪の舞を舞うというもの。大小前に雪を戴いた作リ物が置かれ、ワキ・旅僧が登場してまことに朗々とした名ノリ。やがてワキが脇座に着いたところで、作リ物の引き回しがはずされ、中からシテ・雪の精が床几に掛けた姿で現れます。純白地に上品な金色の文様の長絹、浅葱色の大口がとても上品で、しんと静まり返った空気の中でワキとの問答になります。やがて、扇を用いての盤渉序ノ舞。常につく《雪踏拍子》の小書により、雪を踏みしめるかのように音を立てない足拍子。澄んだ気持にさせられる美しい佳品でした。
見物左衛門
野村萬師の一人芝居ですが、これはすごい!祭り見物を思い立って知合いを誘うものの相手は先に出た後。なんだよ、と思いながらも一人で出掛け、都であれやこれやをお登りさん丸出しで賞でているうちに、流鏑馬。さらに相撲見物に興じるうちに熱くなってしまって行司に文句をつけたり、他の客と相撲をとりあったり。最後は「もう一番!」で辟易した相手を「やるまいぞ」と追い込むという次第ですが、目の前に都の情景や雑踏のざわめき、相撲見物の人垣などが見えてくるようでした。さすがです。
自然居士
喜多流。これは前から見たかった演目です。狂言口開で自然居士じねんこじの説法のことが告げられ、シテ・自然居士の登場。実在の人物だったそうですが、前髪のある喝食面が独特の若々しさと浮世離れした存在感を感じさせます。シテが説法を始めたところで、子方(他流では女児ですが、喜多流の場合は少年)が登場しアイはあらいたいけや
と諷誦文ふじゅもんをとりあげてシテに取り次ぎます。諷誦文というのは、死者の追善のために施物を供え、僧に諷誦(誦経)を乞う文のこと。この諷誦文に二親精霊頓証仏果のため、蓑代衣一重
とあることから、子方が我が身を売って代えた(蓑代=身代)衣をもって亡き両親の成仏のため諷誦を願っていることがわかります。これを聞いて一同袖を濡らすうちに登場したのが、戻らぬ子方を探しに来たワキとワキツレの人商人コンビ。こいつら(←失礼)が本当に悪い人相でド迫力!子方を見つけてワキツレが膝を落としがばっと子方の肩をつかむと立てとこそ!
と、本当に子方が泣きだしてしまうのではないかと心配になるくらいの形相で迫ります。これに対してアイがやるまいぞ
と制止にかかりますが、ワキもこれまた超怖い顔で刀に手をかけ様がある
と威嚇。気圧されたアイは渋々様があるなら連れて行かうまでよ
と引き下がります。ワキたちが脇座に着いたところでアイはシテに事の次第を報告。シテは説法を中止してワキたちを追うことになり、アイは子方が捧げた小袖をマフラーのようにシテの首に掛けて退きます。ワキ・ワキツレは棹を持って立ち、舟出の一セイ。そこへ追いついたシテはその人買舟に物申そう
と呼びかけてワキたちを慌てさせ、言葉巧みに引き留めます。さすがに法体の者を打つこともできず、怒ったワキは子方をバシバシと音高く打ち見ているこちらはびっくりですが、実際にはここは扇で棹竹を繰り返し叩く音で示します。子方はここも含めて一切台詞がありませんが、打たれても泣き声ひとつ上げられないのは、口に綿の轡をはめられているという設定。ワキたちは人買いの掟として買い取った人を返すことはできないと告げると、シテもそれはもっともなれど、自分たちの掟としても人を助けることができないときは庵室へ戻らぬことになっているので、それなら自分がこの者と共に奥陸奥まで下ることにしようと言います。このあたりは、理屈と理屈の戦いでシテに一日の長。胸のすくようなやりとりです。脅してもすかしても動じないシテにすっかり困り果てたワキとワキツレは談合、仕方なく子方を返すことにしますがただ返せば無念に候ふほどに、いろいろになぶつてその後返さうずるにて候
。というわけでここからワキの求めに応じたシテの芸尽くしが中ノ舞、曲舞、簓之段と続きます。特に簓之段は、藤田六郎兵衛師の笛があの難しい顔とはうってかわってひゃらひゃらと軽快。シテは自分をなぶろうとはつれなう候
と最初は文句を言っていましたが、その割には何やら楽しそうに舞ってみせるのがおかしく映ります。そして最後に羯鼓を使ってみせると、子方を立たせて先に下がらせ、自分も囃子方の留めと同時に幕の中に消えました。この曲、シテの芸尽くしも見どころですが、ワキとアイ、ワキとシテとの問答もそれぞれに面白く、一瞬たりとも飽きのこない興味深い演目でした。
千鳥
これは前に観たことがありますが、要はツケがたまっている酒屋からさらに酒を求めてこいと主に言われた太郎冠者が、知恵を絞ってまんまと酒をせしめる話。太郎冠者のキャラは以前観たときと変わらず、酒樽を持ち帰ろうとする企みが酒屋の抵抗でうまくいかないと「やれやれ」とアメリカ人並みの大仰なリアクションを見せますが、アド・酒屋がちょっと変わっていて、語り口も低くぼそぼそとした、なんとなく堅物一辺倒の武張った感じ。それが実は話好きというギャップが徐々に表面に現れてきて、最後にはすっかり太郎冠者のペースにはめられてしまいます。そんなわけで、太郎冠者もさることながら酒屋の方に大いに笑わせられた一番。
石橋
観世流。石橋物も歌舞伎に移植されていろいろにアレンジされていますが、ここでも一畳台=石橋の上に巨大な紅白の牡丹の花がどかどかと立って正先に置かれ、迫力あり。さらに頂上に紅白の牡丹を付けた山の作リ物が大小前に置かれましたが、ワキが入るときに大鼓の亀井忠雄師が後見に何事かささやいて、後見が「えっ?」と聞き返す声が聞こえてきました。どうやら正面から向かって左側の赤牡丹の一畳台が曲がっていると注意したらしく、後見がすぐに台の向きを正しています。ワキ・寂昭法師は入唐して清涼山のこの橋を渡らばやと存じ候
。で、本来ならこの後に童子が現れて問答になるところなのですが、この日は半能なのでワキの出番がこれだけで、そのまま脇座に控えることになります。宝生閑師なのに、もったいない……。囃子方は、小鼓が大音声で「おぉ〜」、大鼓が「はっ」、太鼓が「いよ〜」と繰り返し、その一体感にうっとりしているうちに、揚幕の中に獅子の姿が現われ、ゆっくりと橋掛リに進みます。白頭の親獅子、さらにツレの赤頭子獅子二頭が橋掛リに登場し、作リ物の中からもシテ・白頭親獅子が出てきて、後は一同囃子方の演奏に乗って豪快に跳躍、回転。激しすぎて獅子たちの動きがばらばらという感もなきにしもあらずですが、最後は獅子が見所を見渡して、その視線に清められるような厳かさを感じつつ、太鼓の留め。
というわけでこの日の式能を堪能し尽くし、国立能楽堂を後にしました。さすがに一日中の観能というのは疲れましたが、年に一度ならこういうのもいいかな。
竹生島
醍醐天皇の臣下が竹生島参詣を志し、琵琶湖畔で老人と若い女の乗る舟に便乗し、島に着く。女も同行するので、女人禁制ではないかと問うと、弁才天は女体の神だと、島の由来を語った後、女は社殿に、老人は湖水の波間に消える。やがて社殿が鳴動し、弁才天が舞を舞い、湖上には龍神が現われ、金銀珠玉を捧げ、国土守護を誓い、また水中に消える。
福の神
年の暮れに、福の神の御前で恒例の年取りをしようと、二人の参詣人が連れ立って出かける。豆をまいて囃すところへ、明るく大きい笑い声とともに福の神が出現する。福の神は早起き・慈悲・夫婦愛・隣人愛の徳を説き、最後に自分のような福の神には神酒や供え物をたっぷりせよと謡い舞い、ふたたび朗らかに笑って退場する。
俊成忠度
一ノ谷で平忠度を討ち取った岡部六弥太は忠度が書き遺した短冊を携え、忠度の和歌の師、藤原俊成を訪ねる。忠度を偲ぶ俊成の前に忠度の霊が現れ、自分の歌が千載集に詠人知らずとされたことを恨むが、俊成に慰められ心安まる。そして和歌の徳を語り、修羅の苦患に襲われるが、春の夜が白々と明ける中に姿を消す。
蝸牛
出羽の羽黒山出身の山伏が、大和の葛城山で修行を積んでの帰り道、竹薮の中で寝ている。そこへ、主人の言いつけで、長寿の薬になる蝸牛を探しに来た太郎冠者が出くわす。蝸牛を知らぬ太郎冠者は、頭が黒いと聞いていたので、兜巾を戴く山伏を蝸牛と思い込み、同行を請う。そこで山伏は、太郎冠者を翻弄する。
雪
旅僧が奥州から摂津の天王寺へ向かい、野田の里に着くと、にわかに雪が降り出した。しばらく休んでいると、若い女の姿で雪の精が現われ、迷いを晴らしてくれと頼む。僧が仏縁を結んで成仏するよう勧めると、精は喜んで廻雪の舞を舞い、静かに消えてゆく。
見物左衛門
洛中に住む見物左衛門は、伏見・藤森神社の深草祭の見物を思い立ち、仲間を誘うが叶わず、一人で出かける。九条の古御所で厩、御殿の造作を賞でていると、祭が始まる。流鏑馬に出る具足武者の行列を見、乗り手たちの品定め。節句の幟や兜の美しさに見とれ、子どもの騒ぎに目を転ずると、相撲を取っている。最前列に陣取り、熱中のあまり行司に文句をつけ、他の見物と喧嘩になる。
自然居士
東山・雲居寺造営のために七日の説法をする自然居士の前に少女が現われ、身を売って得た小袖を布施に両親の供養を頼む。そこへ東国方の人商人が来て、少年を連れ去ろうとする。居士は商人を琵琶湖畔の大津まで追い、折衝して少女を救出する。
千鳥 → [こちら]
石橋
入唐した寂昭法師は、清涼山の石橋のかたわらで、文殊菩薩の使獣である獅子が牡丹に遊び戯れるさまを見る。