浅草寺の仮設小屋平成中村座で通し狂言「仮名手本忠臣蔵」。今回はAからDまで四つのプログラムに分かれていて、AプロとBプロが基本セット、Cプロは加古川本蔵セット、Dプロが若手セットという位置づけ。この日はAプロを観ました。これまで平成中村座は「法界坊」にしろ「夏祭浪花鑑」にしろ斬新な演出(串田和美)が売りのひとつだったという印象がありますが、今回「仮名手本忠臣蔵」では勘三郎丈曰く「自分の考えや工夫は、一切入れ」ないとのこと。この古典中の古典にがっぷりと正面から取り組み、中村屋の次世代に伝えていこうという正攻法の企画です。
秋晴れの空の下、外国人観光客の姿が目立つ浅草寺の本堂裏手に幟を多数押し立てた直方体の建物が、今回の平成中村座。狭い入口から中に入ると、客席も横幅が狭く縦方向に長いつくりになっていて、その小振りな空間が江戸の芝居小屋を連想させます。また、定式幕はもちろん中村座の「白・柿色・黒」。私の席は一階席下手の舞台から3つ目、ちょうど花道の七三が目の前に来る位置で、歌舞伎座なら西桟敷席に当たるロケーションです。
古式に則り、まずは口上人形が幕前に登場して、えへんえへんと咳払いをしながら当日の役人替名(配役)を紹介。ついで鳴物・柝が入り、極めてゆっくりと幕が引かれて「大序」となります。舞台上の役者たちは目を閉じうつむき加減で、まだ人形に命が入っていない様子。東西声が七つ響いて竹本が語り始め、順に名前を呼ばれるごとに魂が入って身じろぎを始めるという、たいへん様式的なオープニング。まずは七之助丈の直義から台詞が始まりますが、たいへんノーブルかつ凛としていて、特に、兜実検を終えた顔世御前に「顔世、大儀」と声を掛けたときの笑みを含んだ表情など非の打ち所がない直義です。この直義と並んで上段上手寄りに控える橋之助丈の高師直が、何と言うか強烈。今まで橋之助丈の敵役というと斧定九郎の五十両……
とか民谷伊右衛門とかニヒルな色悪のイメージがあったのですが、この高師直は顔世御前へのセクハラ、若狭之助へのパワハラとなんでもありの憎々しさ。しかも格に応じた貫禄が失われておらず、怪演といっていいくらいです。また、勘太郎丈の若狭之助の若さゆえの直情径行、勘三郎丈の塩冶判官のおっとりとした振る舞いが対照的で、かつ後に続く悲劇の予兆となります。しかし、孝太郎丈の顔世御前が真っ白の塗りで目の前数メートルの位置に来たときには、さすがにちょっと不気味でした。
三段目は、足利館表門前の駕篭の中に師直がいるという設定で、その前で半道敵・鷺坂伴内と奴たちのコミカルなやりとりから。若狭之助の忠臣・加古川本蔵が師直へ目通りを願ってやってきたという注進が入ったのに鶴ヶ岡での遺恨を晴らすためであろうと勘違いをした伴内たちは、本蔵を斬る算段をします。奴たちにせがまれて稽古をつけることになった伴内は、自分が本蔵に挨拶の言葉を述べて右足を出したとたんにばっさりと殺れ、と手順を決めますが、稽古をしてもなかなかタイミングが合いません。やっとうまくいってできた!
と判内が喜んだのもつかの間、実は本蔵は若狭之助との関係修復を願って師直ほかに賄賂を持参したことがわかり、伴内が進物に近づこうと右足を出すと奴たちが本蔵に斬り掛かるのを必死に止める羽目になり、場内は大爆笑。
いったん幕が引かれ、素早くうすべりが敷かれて「松の間」。目を剥き殺気を全身に漲らせた若狭之助が折しもそこへ入ってきた師直のもとへ駆け寄ると、本蔵の賄賂が効いた師直は打って変わって超下手。刀を投げ出し平伏して鶴ヶ岡での仕打ちを詫びる惨めな姿に斬るに斬られなくなった若狭之助は、憤懣やる方なしという表情で馬鹿な侍だ!
と捨て台詞を吐いて館奥へ引っ込みます。まだ平伏して詫びを言い続けている師直のもとへ伴内が駆け寄り若狭之助が去ったことを告げると、起き直った師直はがらりと風情を変えて小僧め、本気で俺を斬る気とみえる。馬鹿ほど怖いものはないなあ
とケロリとしたもの。格が違う!そしてとばっちりを受けるのが、この後に花道をやってきた塩冶判官。まずは出仕が遅いとクレームをつけられ、さらに折悪しく届いた顔世御前から師直への文がさなきだに重きがうえの小夜衣わがつまならでつまな重ねそ
と、要するに交際お断りの内容なので師直の仕打ちはエスカレートし、鮒だ鮒だ、鮒侍だ
になってきます。ここが難しいところ。大序ではキレかかる若狭之助をやんわり押しとどめる冷静な役回りの塩冶判官が、この場のやりとりだけでお家断絶につながる刃傷沙汰に及ぶのですから、師直のいたぶりようには「そうまで言われては仕方ない」と思わせるだけの悪さ強さがなければならないし、塩冶判官の葛藤の高まりもしっかり見せなければなりません。そしてここでも、橋之助丈の師直は成功していました。底意地の悪い苛烈な苛め、そしてきっとなった塩冶判官に少々びくつきながらも刃傷には及ぶまいと高を括って罵詈を重ねる嫌らしさ。この場は師直最大の見せ場となりました。とうとう刃傷となった刹那、加古川本蔵が塩冶判官を背中から抱きとめ、大名たちもわらわらと駆け込んで混乱のうちに幕。
この後に「道行」ではなく原作通りの「裏門」を持ってきたのが今回の公演の工夫で、顔世御前の腰元おかるとの逢い引き中に主人の塩冶判官が刃傷沙汰を起こして館の門は閉められ、判官の館も閉門。行き先を失った早野勘平が一度は自害を覚悟するものの、おかるの説得で山崎へ落ちることになるくだりが、竹本に乗った舞踊として語られます。その後におかるに横恋慕する伴内が出てきて引き止め、奴たちとの立ち回りとなりますが、狭い舞台の上で奴がとんぼをきったりするからかなりの迫力。
休憩時間にトイレに立つとすごい行列になっていましたが、係の女性が「平成中村座名物お手洗いでございます!ただいま満席でございます」などと面白おかしく案内してくれているのでいい雰囲気。柿色の法被や作務衣を着たか係員さんたちはいずれもはきはきして、しかもフレンドリーで好感がもてます。そして、次の「切腹の場」は上演中は出入り禁止となることが告げられました。もちろん、場の厳粛さを活かすための昔からの約束事です。
四段目、「切腹の場」は彌十郎丈の石堂右馬之丞と亀蔵丈の薬師寺次郎左衛門というお約束の善悪上使コンビで、情と理をわきまえた石堂の爽やかさに対して憎々しげな薬師寺は最初の肩を怒らせた花道の出からいかにも亀蔵ワールド。上意として領地没収・切腹が告げられると、白装束姿になった塩冶判官の前に畳2枚が運び込まれ、白布で覆われるとともに四隅に竹筒・榊が置かれてあっという間に切腹台の出来上がり。以下、作法にのっとった手順を重ねて厳粛な雰囲気の中にとうとう腹に刃を突き立てたところで花道をこけ転ぶように仁左衛門丈の大星由良之助が駆けつけて、場内から「松嶋屋!」の掛け声と拍手が沸き起こりました。そこへ石堂が立ち上がり苦しゅうない、近う、近う!
と大音声で呼びかけ、塩冶判官のもとへ急がせます。ここからが見どころ。苦しい息の塩冶判官は由良之助に聞いたか無念
、そして由良之助に九寸五分(切腹の刀)を形見とすると告げ、目と目で自身の無念を晴らせと命じると、察した由良之助も委細
とだけ答えて平伏します。このあたりの、ぴんと張りつめた空気の中で説明的な台詞の一切が削ぎ落とされた心理劇のようなやりとりが、歌舞伎ならではの演出です。そして、これを見て満足した塩冶判官は、従容と死につくのです。
この後、血気に逸る諸士たちを引き止める台詞の迫力、恨むべきは唯お一人でござるぞ
と絞り出す声と目の鋭さ、さらには表門でも駆けつけた諸士たちに城明け渡しを説得する大きさなど、時代物ならではの人物造形で由良之助の貫禄が示されますが、由良之助の本領はこの後。暗い門前に一人残された由良之助は形見の九寸五分を取り出し、刃についた血を手にとり舐めてすごい形相で仇討ちを誓いますが、明けの酉の声に館を後にします。背後の門が下がることで距離的にも心理的にも館が遠ざかることが示され、花道七三で涙ながらに平伏して塩冶判官の魂に別れを告げると、幕が引かれます。そこで立ち上がった仁左衛門丈の思い入れのこもった演技は、一切の台詞抜きで由良之助の万感の思いと孤独とを圧倒的な存在感で見せ、ついに振り切るようにして花道を去るときには満場の拍手と歓声に包まれました。
仕事の都合で五段目を観ることはできませんでした。橋之助丈の斧定九郎を久しぶりに観たかったのですが、こればかりは仕方がありません。